昭和47年10月01日 月次祭



 神様にお叱りを頂いておる様な、秋永先生のお話でした。皆さんはどう感じられましたでしょうか。愈々もう十月御本部参拝、そして待望のとでも申しましょうか。記念祭をもう二十日後に控えさせていただきました。おかげで本当に神様のそれこそ(?)だけで、今度の御造営は出来ておると言った様な感じで御座いますよね。それこそ幹部役員の方達が、いらいらもやもやするのも、本当に無理からんことだと思います。
 只今私マイクで裏の共励殿で、先生の話を始めから聞かせて頂いておりましたら、神様からみかんを二つに切ってね、それをこう絞ってある。いくら地団駄踏んで言うてもです。例えば言われたから、その日はやっぱ行かにゃんと言った様な事では、勿論全然それは、それこそ来て貰わん方が良かくらいですね、そげんとなら。神様の立場で言えばです、真もなからなきゃ真心も無い人達が、いかに沢山集まった所で、それこそ怪我人どんが出来たら、大変なことですからね、言うならば。
 ですから本当にですね、真心を結集してのものでなからなければならない。やむにやまれないというもので無からなければ、御用と言う事にならんのです。いかに私なり今秋永先生が本当に叱らんばかりに、あぁして言うておられるのを、聞かせて貰うてあれは秋永先生じゃないな神様だと、私は思うたそして誰でもない彼でも無い、私自身だと思わせていただいたんです。例えば絞ってももう汁も出らんち言うのが、現在の私を始め皆さん達の信心の状態じゃないでしょうかね現在。
 神様の目から厳密にご覧になったらですよ。なるほどお月次祭も、こんなに沢山お参りをしてきておる。それこそ朝の御祈念などと言うたら、今日なんかはここが一杯でした。だから、やはりおかげを受けたいという人は、沢山あるという事なんです。だからそれが良い信心を、合楽が持っておるとは言えないわけです。何かの時にやっぱ現れてこなければね。けれどもほんならば私共の信心は、それこそみかんを二つに切るという事は、菊の花がこう出てくるですね。
 所謂合楽の信心のシンボルとように言われるところの、合楽の本当に良い信心と言うのは、菊の花の信心だとこう言われておるです。その菊の花の信心がもう絞り切られておる。これではね絞っても汁も出らんというのが状態。だから汁も出らんごたるとが、集まって御用した所でです。所謂無味乾燥なそれこそ、怪我人どんが出来たら却って神様の顔に泥を塗ると言うようなことにならんとも限らん。昨日なんかは私神様のお気付け、お叱りを頂いておると思うたんですけれども。
 御結界の裏で電気工夫さんが仕事をしてました。私は裏から水道が途絶えましたから、「どうしてか、」「どうしてか」と言うて、ここまでやって参りましたら、丁度ここの後ろの畳を一枚はぐったところから、電気工夫さんが顔を出したのと、私が行ったのが一緒でした。それで私が「どうして水が出らんのか」と言うて、そこの廊下のところへ言うて来よるものですから、上野先生が奉仕してましたが、「今停電中ですから、水が出ません」電気が点いてる。
 もうそれこそ電工さんが、途端に真っ青になって、ガタガタ振るうちいうのは、あぁいう時の事を言うのじゃなかろうかと。私はそれこそ「撃ち殺してしまうとこですか」ち言うちから、廊下の下から出てきました。二百五十ボルトの電気を扱うておる。それをですね、そこの手を外したのと電気の来たのが一緒じゃった。それこそ思えば思うほど私が、今日もその電工さんが来とりましたのに、「命拾い、昨日した人は、この人ですよ」と言うてから、言うたことでしたけれども。
 本当にここの御結界の後ろで、それこそ電気に撃たれて焦がれて死んでしまわねばならないような。それも間髪を入れずでした。それがこういう仕事をするからと、事務所に言うてあったらしい。だから末永さんは勝手のほうに「三十分ばっかり電気が切れるから」と、言うて回っとったから、裏の者は水が出らん訳が分かっとった。ところが昨日は今日は日曜で、誰も来てませんでしたけれども。昨日は沢山職人さんどん、人夫さんが入っておった。それで水を使わなければならんのが、出らんもじゃけんで。
 外からこうやって入れたわけ電気を。こちらには連絡がしてなかった訳です。もう何秒間か早うしとったら、この人は焦がれ死にしなければならじゃった。光男さんが言うた。「僕たちでも、二百ボルトまでなら扱えるけども、二百ボルト以上は、いよいよ専門の人でなからにゃ、扱えない」と言うような電気を扱っている時じゃった。本当に考えただけでも、身の毛がよだつ。
 ちょうどその直前でしたか浮羽郡の方が、ここの茶室の前にこぶしという木がある。知らなかったあれがこぶしという事は。赤い実がなるちょうどこぶしのような。それがもう大変に貴重な木で、標本かなんかにする木に、それを作りたいというのでね、種を貰いに見えておった。高橋さんが名刺を持って見えましたから、「そらもう上げて下さいただ、秋になると真っ赤な大きな実がなるから、お花の材料に時々使う事があるから、少し残しといて、後はみんなちぎって持って帰って貰って良いですよ。」と。
 言うて、まぁ言うた事で御座いましたけれども、後から考えてみる、あれがこぶしと分かった。昨日そこを通り合わせる人が、こぶしがここにあるという事を見てからわざわざ、奥さんと二人で、種にすると言うて貰いに見えた。本当に神様が何かこうこぶしを振り上げてござるという感じがするんです。自然がね神様と言うのは、自然と言うても良いでしょう。神様がこぶしを振り上げてござる。もう叩かれるその刃の下にあるような感じがしますね、その電気のことと言い。
 はぁ腑が良かった、良かったと、言うだけじゃ済まされない。本当にここにしゃんとしなければ出来ない。けれどもいく、秋永先生が、卓を叩いて「さぁしっかり頑張りましょう。もう後二十日ですよ記念祭は」と言うてもです。お互いの心がですただ牛にひかれて善光寺参りち、重い足を引きずるようにして、御用に来たとてもです。そういう事で、それこそ神様のこぶしにでも当てられたら、却って目も当てられない。合楽の御比礼を却って落とす結果にしかならんだろうと思うのです。
 ですからお互いが、信心をさせて頂いておる信心が、日頃どういう風な所に焦点をおいて信心をさせて頂いておるのであろうか。おかげ頂かにゃんおかげ頂かにゃんというだけではないと思うんですよね。信心が私はそこにお育てを頂いておる。その信心のお育てを頂いておる実力をです。例えばこの様な時に現わそうという時にです。
 現せないという事は、日頃の信心が、稽古が稽古になっていないんだと、先ず反省させて頂いて、これは、私を含めてです。そこでです例えば今のところでは絞っても、もう汁も出らんというのが、神様の目からごらんになる。厳密に言うて私の信心の様子を、絞りきったみかんの半分に、例えて下さったように思うのです。そこでね私共はここへ新たなものを、もう一つ秋永先生の話を聞いて。
 ほんにそうだと思うたら、新たなものが生まれた訳です。ほんならこの次の日曜には、それこそ、みんながっせで、おかげを頂くぞという事はです。そう思うたこと。いうならば、新たなみかんを頂いたんです。だからそれだけではいかんのです。そのみかんを二つに切らなければ。丸のままでは信心にはならん。そう思うただけでは、ほんなこつ、先生が言いなさる通りに、本当に御用に一日も出らじゃった、今度の御造営ばっかりはと言うようなことでです。
 ほんなら今度は愈々最後になるだろうから、一応その八日の日ですか、今日は一日御用させてもらおうと言うのであっては、丸のままのみかんのようなものであって、それは本当の有難いというものには繋がらない。記念祭を前にしてひと修行させて貰い、記念祭を前にして、日頃改まれなかった所を改まらせて頂いて、おかげを頂こう。私は二つにするという事は、私の心の中から改まりをさせてもらう。私のところから切り取らせてもらうものは、切り取らせていただくという事だと思った、今日は。
 二つに切るという事は。例えば、もう八日間あるのでございますから。八日目の御曜日にはです、本当に喜びが心の底から湧いてくるほどしのおかげ。ためにこの八日間なら、八日間の間に、本気で修行もさせてもらおう、改まりもさせて頂こう。この事だけは、今度の記念祭にお供えさせて頂こう。心の中のものですよ。今まで改まろうこんなこっちゃおかげを受けられんと言った様なものを、心に感じて知っておる、お互いが。それをです、本気で断ち切る。それを二つにすることだと思うんです。
 八日間あるのですから。一つねその八日間でこれを二つにさせて頂いて、ちょっと絞れば、それこそジクジクするように、湿りを感じるほどしの喜びをね、いわば御造営に向けさせて貰い、又は御本部参拝に向けさせて貰い。愈々二十日の祈念大祭に、それを持ち続けさせていただくと言うことになれば、記念祭を境にです。例えばこういう改まりも出来た。こういうおかげも頂けた。こういう改まりも出来たという事になるのじゃないでしょうか。皆さん今晩を境にですね。
 一つ本気で二つにする信心をしなければいけません。私の心の中にあってはならないもの。こういう信心しよって、こういう心の状態であってはいけないと感じるものをです、二つにするという事は、別れるという事なんです。二つにすること。そこからですいわば、菊の花の模様も出てくるし、その菊の花の有難い勿体ないの汁が、こぼれる様にです。そのこぼれるような喜びをもって、今度の記念祭はどうでも私を先頭にしてです。皆さん一同奉仕させていただきたいというふうに念願しております。
 只今の秋永先生のお話を聞きながら、その様な事を頂いた。どうでしょうか。八日間ありますもうこりゃ私も改めて、ここんとこを取り組ませてもらいます。ですかられを私共が、本気で行じさせて頂いて、本当に態度の上に言うても良い、心の内容の上の事でも良い。とにかく是は改まらなければ可笑しい。是は改まらなければ、おかげは受けられんと、突き止めておるものが、お互いあるのですから。それを本気でそれに取り組ませていただいて、二つにするところの信心。
 そこから神様のご期待に添う、八日後の御用が出来るのじゃないかと思います。神様も喜んでくださり、ようこそ分かってくれたとそれこそ、こうやって振り上げられておる手の下に、私共があるような感じがするんですよね。ですから本気でひとつ、改まらせてもらいましょうや。そこからです新たなものを頂いて、そこから潤わんばかりの喜びとでも申しましょうか。そういう喜びを以って、本気で一つ御造営の御用にも又は御本部参拝にも、お参りもさせてもらおう、御用にもさせてもらおう。
 そしてその心を持ってです記念祭に突入していこう。記念祭を迎えさせて頂こうという事にならなければならない。先ほど末永先生が、前講を勤めておりました。ただ御結界に座らんならんから、座るというのでは何にも感ずる事は出来ないけれども。ここに神様いましますというように、敬虔な謙虚な心でここへ座らせて頂いたら、その時点から神様に交流するものを感ずるという意味のことを言っております。私どもは神様をここにいましますと言う、そういう実感が遠のいておるのではなかろうか。それは修行によって、改まりによって得られるんだという事を、今日は聞いて頂きましたですね。
   どうぞ。